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54歳、大手金融機関の支店長。200名の部下を率いていた人が、ある日すべてを手放して複業家になった。
第1部の最終回となる本記事では、この事例を通じて、プロティアン・キャリアの概念がキャリアの中でどう機能するかを見ていきます。アイデンティティ、アダプタビリティ、乗算戦略、トランジション、キャリア資本、心理的成功。これまで扱ってきた概念が、一人の人生の中でどうつながるのか。
※ 本記事のAさんは、キャリアトランジションに関する複数の調査・文献をもとに構成した架空の人物です。特定の個人の事例ではありませんが、50代のキャリア転換において実際に見られるパターンを反映しています。
目次
Aさんのプロフィール
Aさんは、大手金融機関で30年以上のキャリアを積みました。営業、企画、管理と様々な部署を経験し、最終的には支店長として200名規模の組織を率いていました。
50代前半で、予期せぬ人事異動を経験します。長年築いた部署を離れ、新設部門への異動。本人にとっては「左遷」と感じられる異動でした。
この経験がきっかけとなり、54歳で早期退職を選択。現在は、複業家として複数の事業を展開しています。
トランジションの経験
終焉の段階
異動の発表は、Aさんにとって大きな衝撃でした。30年以上会社に貢献してきたという自負があり、その評価がこの異動に表れていると感じました。
「正直、裏切られたという感覚がありました。会社に尽くしてきたのに、結局この程度の扱いなのかと」
これは、ブリッジズのトランジション・モデルにおける「終焉」の段階です。「大手金融機関の幹部」「成功した会社員」という以前のアイデンティティが揺らいでいます。
ニュートラルゾーン
異動後の数ヶ月間、Aさんは深い混乱の中にいました。新しい部署での仕事にやりがいを見出せず、かといって転職する覚悟もありませんでした。
「毎朝、出社するのが苦痛でした。何のために働いているのかわからなくなった」
これは、ニュートラルゾーンの典型的な症状です。古いアイデンティティを手放し、新しいアイデンティティがまだ確立されていない「間」の時期。
しかし、この時期にAさんは重要な内省を行いました。キャリアカウンセラーとの対話、書籍との出会い、そして自分自身との対話。
「自分は何者なのか、何を大切にしているのか。初めて真剣に考えました。それまでは会社が決めた道を歩いてきたので」
開始の段階
内省の結果、Aさんは一つの決断に至ります。早期退職制度を利用して退職し、「複業」という新しいキャリアを始めること。
「会社の看板がなくなったら何もできないんじゃないか、という恐怖はありました。でも、このまま続けていても心理的に持たないと思った」
退職後、Aさんは複数の活動を開始しました。企業のアドバイザー、講師、コンサルタント、そして自身の事業。これらを組み合わせて、新しいキャリアを構築しています。
アイデンティティの発見
キャリアアンカーの再発見
ニュートラルゾーンでの内省を通じて、Aさんは自分のキャリアアンカーを再発見しました。
「振り返ると、私が最も充実していたのは、若手を育てているときでした。支店長時代も、数字を上げることより、部下の成長を見ることが嬉しかった」
シャインの8つのキャリアアンカーで言えば、「奉仕・社会貢献」と「全般管理コンピタンス」の要素が強いです。ただし、組織の階層を登ることよりも、人の成長に貢献することに価値を見出していました。
アイデンティティの再構築
退職後、Aさんは「大手金融機関の支店長」から「複業家」へとアイデンティティを再構築しました。
しかし、核心部分は変わっていません。「人の成長に貢献する」という価値観は、講師活動やコンサルティングにおいても一貫しています。変わったのは、その価値を実現する「手段」です。
「会社にいたときは、部下の成長を支援していた。今は、企業の経営者やビジネスパーソンの成長を支援している。やっていることの本質は同じ」
これは、#6で解説した「変わるものと変わらないもの」の実践です。アイデンティティ(価値観、志向性)は変わらず、スキル、手段、所属する組織が変化しています。
アダプタビリティの発揮
4Cの実践
Aさんの転身は、サビカスの4C(関心・統制・好奇心・自信)の実践でもあります。
関心(Concern)。退職を決める前、Aさんは将来のキャリアについて真剣に考えました。「このまま60歳まで会社にいて、その後どうするのか」という長期的な問いです。
統制(Control)。会社の人事異動に流されるのではなく、自ら退職を決断した。キャリアを自分でコントロールするという意識の表れです。
好奇心(Curiosity)。「複業」という未知の領域への挑戦。50代から新しいことを始めることへの開放性がありました。
自信(Confidence)。「会社の看板がなくてもやっていける」という自己効力感。ただし、これは最初からあったわけではなく、小さな成功体験を通じて構築されたものです。
リスキリングの実践
Aさんは、退職前後で新しいスキルを習得しました。
「講師をやるなら、プレゼンテーションのスキルを磨く必要がありました。また、オンラインでの発信方法も学びました。50代で新しいことを学ぶのは正直しんどいですが、やればできるものです」
プロティアン・キャリアの構成要素 ~「アダプタビリティ」とは|#05 プロティアン・キャリア戦略
で解説したように、リスキリングは具体的な経済的リターンをもたらす投資です。Aさんの場合も、新しいスキルが新しい仕事の獲得につながっています。
キャリア資本の活用
Knowing-Howの転用
30年以上のキャリアで蓄積した方法知は、新しいキャリアでも活用されています。
金融知識、マネジメント経験、営業スキル。これらは、企業アドバイザーやコンサルタントとして活動する上での基盤となっています。
「会社にいたときは当たり前だと思っていた経験が、外に出ると価値があることに気づきました」
Knowing-Whomの活性化
長年のキャリアで築いた人脈は、新しいキャリアを支える重要な資産となりました。
「退職後、最初の仕事は元同僚からの紹介でした。その後も、紹介から仕事が広がっていきました」
グラノヴェッターが提唱した「弱い紐帯の強さ」(#11参照)が機能しています。退職後、社外の知人や元取引先といった「弱い紐帯」が、新しい仕事の情報や機会を橋渡しする役割を果たしました。
Knowing-Whyの深化
トランジションの経験を通じて、Aさんの動機知(Why)は深化しました。
「なぜ働くのか、という問いに対する答えが明確になりました。お金のためでも、地位のためでもない。人の成長に貢献することで、自分自身も成長し続けたい。これが私の『Why』です」
心理的成功の達成
客観的成功との比較
客観的に見れば、Aさんのキャリアは「後退」と見えるかもしれません。大企業の支店長という地位を捨て、不安定な複業家になりました。年収も当初は大幅に減少しました。
しかし、心理的成功という観点では、明らかに向上しています。
「支店長時代より、今の方がずっと幸せです。毎朝起きるのが楽しみ。自分で選んだ仕事をしている、という感覚が違う」
心理的成功の構成要素
心理的成功を測る|#12 プロティアン・キャリア戦略 で解説した心理的成功の構成要素に照らしてみます。
キャリア満足度は「今のキャリアに満足している。後悔はない」。仕事の意味については「自分の仕事が誰かの役に立っている実感がある」。自己効力感は「新しい課題が来ても、何とかなるという自信がついた」。ワークライフバランスは「仕事の時間も量も自分でコントロールできる」。
いずれも、会社員時代より向上しています。
示唆:ここまでの総括として
Aさんの事例は、第1部で解説してきた概念の統合です。
アイデンティティ(#4)では、キャリアアンカーの発見とアイデンティティの再構築が起きました。アダプタビリティ(#5)では、4Cの実践とリスキリングによる新しいスキルの獲得。乗算戦略(#6)では、「人の成長に貢献する」というアイデンティティと、講師・コンサルタントとしてのスキルが掛け合わさっています。
トランジション(#8-10)では、終焉からニュートラルゾーン、そして開始という3段階をそのまま経験しました。キャリア資本(#11)では、方法知・関係知・動機知の活用と深化。心理的成功(#12)では、客観的成功ではなく心理的成功を追求した結果が表れています。
プロティアン・キャリアは、理論として理解するだけでなく、実践することで意味を持ちます。Aさんの事例が示すように、年齢や状況に関わらず、プロティアン・キャリアの実践は可能です。
まとめ
Aさんの事例を通じて、第1部で扱ってきたプロティアン・キャリアの概念がキャリアの中でどう機能するかを見てきました。
トランジションの3段階(終焉→ニュートラルゾーン→開始)は、Aさんの経験においてそのまま機能していました。予期せぬ異動による古いアイデンティティの終焉、数ヶ月間の混乱と内省、そして早期退職と複業という新しいスタート。
特に重要なのは、「人の成長に貢献する」というアイデンティティの核心は変わらず、実現手段だけが支店長から講師・コンサルタントへと変化した点です。サビカスの4C(関心・統制・好奇心・自信)も、キャリア転換の各局面で発揮されています。
30年以上のキャリアで蓄積したキャリア資本、つまり金融知識やマネジメント経験、人脈、深化した価値観は、新しいキャリアでも十分に活きています。
客観的には年収が減少し地位も失いました。しかし心理的成功の観点では明らかに向上している。この事実は、心理的成功が客観的成功とは独立して追求・達成できることを示しています。
Aさんの事例が伝えているのは、プロティアン・キャリアは理論にとどまらず実践できるアプローチだということです。50代からでも、新しいスキルを学び、新しいキャリアを構築し、心理的成功を達成できます。
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